2015年11月24日火曜日

猫舌ちゃん

とある居酒屋で1人カウンターで飲んでいた時の事です。
隣のテーブル席の女子2人組の会話が聞こえてきました。
聞くつもりはないのですが、聞こえてくるのだから仕方ありません。
「あつっ」
「大丈夫?」
「熱いよぅ!これ、」
「ここに置いて冷ましなよ」
「冷めたらやだ」
「どっちなの」
「猫舌だから熱いのはやだけど冷めてもやなの」
「じゃあどうするのよ」
「熱いの次の段階がいい」
「次の段階てなに?」
「少し熱い」
「オッケー」

わかったんかいっっ!!!
次の段階て!全部で何段階あんねんっっ!!!

海苔を入れたがる

たまにラーメン屋で、丼に大きな海苔が刺さって出て来る事があります。
その海苔に店名や名言が書かれていたりして、なんとなく派手に見えるというか、勢い的なものを感じます。
ところがいざそれを食べるとなると、非常に食べ辛いのです。
仮にそのラーメンが、海苔を入れる事で完成する味付けであればまだ理解できるのです。
ところが、ほとんどのラーメン屋では味付け目的では使用してないのです。
ただの飾りなのです。
仮に、もしも味付けとするのならば、あんな大きな1枚ものの海苔を使用せず、刻み海苔を使用するはずです。
刻み海苔ならば理解できるのです。
はっきり言ってあんな大きな海苔は迷惑です。邪魔です。
抜き取って破り捨てたい衝動にかられます。
海苔は1枚なので、何口か食べるうちの、たった1回だけ海苔の味になります。そんな1回いらないのです。
さらにそれだけでなく、安い海苔で少しでも豪華に見せようとする店主のセコさが見え隠れし、非常に腹立たしく思えます。
ごくまれに、ラーメン屋で誕生会をやってくれる客がいて、その人のためだけに海苔におめでとうと書いて出す程度ならまだ許せます。
それ以外で、あんな海苔1枚に頼るようなやり方は辞めていただきたいものです。
しかも丼の向こう側にドーンと立てたりして、あんなもの子供の頃の弁当の蓋で弁当を隠して食っていた根暗なヤツを思い出させるだけのものでしかありません。
どうせなら海苔に四コマ漫画が書かれていたり、連載物の小説などが書いてあれば、食べながら読むことも出来、暇つぶしにぐらいにはなるでしょう。
そんな気の利いた演出すらできないのであれば、即刻やめていただきたいものです。

先日、三重県のとある田舎町で、たまたま通りかかって入ったラーメン屋での出来事です。
メニューを見ていると、トッピングメニューの中に、海苔という表記を見つけました。
は?海苔?海苔をトッピングする奴なんかおらんやろ実際問題。
そう思っていると、隣に座った男性が海苔トッピングを注文したのです。
するんかいっっ!!!
そして隣に出てきたラーメンは、麺が見えないほどの海苔で覆われていました。
それを美味しそうに食べる姿を見ながら、世の中には色んな人がおんねんなと、つくづく思うのでした。
案外ニーズあんねんね海苔。

シケモク大将

南海電鉄のとある駅に、シケモク大将は居ました。
うつむきながらキョロキョロと何かを物色しながら歩き、誰かがポイ捨てした吸い殻を見つけると、おもむろに拾いあげ、持っていたライターで火をつけ、一口二口吸っては持っていた缶に入れるのです。
一口か二口というのは、それほどまでに吸える箇所が少ないわけで、長いものを見つけた時は、少し嬉しそうな表情を見せるのです。
やっている事は、駅周辺の美化活動です。
ポイ捨てされたタバコの吸い殻を拾い集めているのですから。
ただ、拾って缶に入れる途中、一瞬だけ火をつけて吸っているだけなのです。
彼は決してタバコが吸いたいのに、買うお金がないからやっているわけではないのです。
駅周辺を綺麗にしたいだけなのです。
だからシケモク大将とは呼ばないであげてください。

マヨネーズ

ポテトフライをマヨネーズにつけながら食べていた時の事です。
時折、ポテト本体よりもマヨネーズの量の方が多い時があったりして。
それがまた美味いのです。
これポテトいらんやん!
酒のアテ、マヨネーズだけでええやん!

オバチャンらしいトーク

ある日、電車に揺られていると、隣に座っていたオバチャンが話しかけてきましした。
「この電車って次の駅から各駅に停まるんですか?」
「そですよ」
「では特急が停まらない駅も停まるんですよね」
「そうなりますね」
「いや普段JRしか乗らないから何も知らないんです」
「あはい、」
この最後のセリフは完全にオバチャン特有のセリフです。
こちらは何も聞いていないのに、何故こんな質問をしたのかという理由を勝手に言っているのです。
こちらから「知らないんですか?」と聞いたならまだ理解できます。
しかしながら一言も聞いていないのです。
聞かなくても質問をしてきた時点で知らない事ぐらいはわかります。
知ってて聞く人なんて居ませんし、そんな言い訳がましいセリフは必要ありません。
何故オバチャンという生物は、こういう事を言うのでしょうか。
若い時は可愛くてクールだった女子も、ある時期を境にみんなオバチャンに生まれ変わり、こういう聞いてもない言い訳を言うようになるのです。
こんな事を言われたら「あはい」以外に言いようがありません。
そんな言い訳よりも「ありがとうございます」と言うだけで、とても気持ちの良い会話になるのです。
なんなら席を立つ際には、お互いに会釈をして下車するような関係となるはずです。
それをこんな聞いてもない言い訳をしたばっかりに、後味の悪い別れ方をしなければならなくなるのです。

ローソンで珈琲

とある田舎町を走っていると、無性に珈琲が飲みたくなったので、ローソンに立ち寄りました。
ローソンの珈琲の紙カップは、他のコンビニエンスと違って表面に滑らないタイプの加工が施されていて、車内のドリンクホルダーに入れてしまうと、取り出すのに大変苦労するので、極力買わないようにしているのですが、田舎という事もあり、すぐにコンビニがない可能性もあるので、妥協して買う事にしたのです。
レジで100円を出し「珈琲」と言うと、すぐに「珈琲やってないんです」との返事。
「や、やってない?」
「はい」
珈琲やってない店舗あるんですねローソン。ビックリしました。
仕方ないので出しかけた100円を握りしめたまま車に乗り込みます。
しかし考えてみると、段々と腹が立ってきました。
車を停め、レジまで行って、しかもわざわざ少し並び、やっと順番が来て注文しているのに、堂々と無いものは無い的な態度を取られると、何か違う気がするのです。
車を停めた時点ですぐに見えるところに「このローソンには珈琲はありません」的な表示を貼っているのならこの態度でも理解できます。
でもそんな表示すらないのであれば、もう少し店員も申し訳なさそうにして断って欲しいものです。
「今日もまた珈琲がない事を知らんアホな客がまた来よったで、あははは!アホや!あいつアホや!」
と言われている気がしてならないのです。
そんな事を考えながら、10分ほど走っていると、コンビニがありました。
またローソンです。
少し嫌な予感はしましたが、まさか2件続けて珈琲がないなんて、さすがにあり得ないでしょうし、気にせずに車を停め、店内に入ります。
店内に入ると、すぐに珈琲マシンの前で何やらゴソゴソとやってる男性が目に入りました。
それをチラ見しながらレジの女性に「珈琲」と告げ、握りしめたままの暖かい100円を差し出します。
するとその女性店員が言います。
「珈琲はメンテナンス中です」
確かに見ればわかります。
「メ、メンテナンス?」
「はい」
「無理なの?」
「はい」
店員は、私の出した暖かい100円を受け取ろうともせず、キッパリとそう言い放ちました。
先程のローソンの店員と同様に、申し訳なさそうなそぶりは一切ありません。
もう少しで終わるとか、そんな案内も一切ありません。
申し訳ないなんて微塵も思ってないようです。
メンテナンスするなら深夜にやった方が良いと思います。
どうしても昼間にやりたいのなら、セブンイレブンのように、珈琲マシンをもう1台増設して、メンテナンス中の客に備えるべきです。
それをしないのなら、せめて申し訳なさそうに丁寧にお断りするという接客マナーを教えるできです。
今回の件で、ローソンは珈琲を売る気が全く無いという事がよく解りました。

骨を食べる

魚を食べている時など、年齢と共に、何故かいちいち骨を出す事が面倒になってきました。
骨だけでなく、蟹や海老などの甲殻類もそうです。
面倒くさいのです。
年齢と共に歯が強くなったわけではありません。
逆に恐ろしく弱くなっています。
なのにそれに反比例して、骨や甲殻をバリバリと食べるようになってしまったのです。
これまでは、鯵や秋刀魚などの小骨がある小さめの魚でも、慎重にそして丁寧に、骨を食べないように心がけて生きてきました。
最近ではバリバリと全部食っています。
先日、長崎県の小浜を訪れた際、海辺の料理屋で食べた丼入りの味噌汁に、蟹が甲羅ごと入っていました。
以前の私なら、面倒でもいちいち丁寧に身を取り食べていたでしょう。
ところが今回は、バリバリと殻ごと食べたのです。
口は痛いわ、身よりも殻が多くて美味しくないわで散々でした。
でもそれ以上に、身を取る労力は避けたかったのです。
そんは私を人は野生児と呼びます。

幸せを感じる時

皆さんはどんな時に幸せを感じるのでしょうか。
私が幸せを感じるのは、おかずを口に入れた後、残量を気にせず大量にご飯を口に入れる事ができる瞬間です。
一般的には、ご飯の量には限りがありますので、残量を気にしながら食べなければなりません。
出てきた定食などで、ご飯の量が少なかった時など、限られたご飯を切り詰めて切り詰めて、少しずつ遠慮しながら口に入れなければなりません。
そういった時は逆に物凄いストレスを感じるのです。
ご飯の量は多けれは多いほど、最高に幸せを感じます。

リュック

まさか自分がリュックを買うなんて、想像もしませんでしたが、世の中何が起きるかわからない時代です。
結局私がリュックを買い、そして背負って歩いているのですから。
長年の肩こりと腰痛が、もしかしたら重いバッグのせいではないかという疑問が、脳裏を横切った時点から、ずっと買うか悩んでいました。
まずスーツが基本という私には、ファッション的に合わないのではないかというところが、その悩み続けた大きな要因です。
しかもこの年齢、この体型です。
オタクのオッサンに見られるのは嫌ですし、山下清にも見られたくないのです。
あとは、昔からなんでもすぐに取り出せるトートタイプのバッグばかりを選んでいましたので、荷物を取り出しづらいばかりか、それを背負ってしまう事への抵抗もかなりありました。
しかし肩こりは年々酷くなり、そうも言っていられない事態となり、先月意を決して購入したのです。
購入後、3日間背負いました。
そして3日目、電車内でのリュックの扱いで、疑問が生じたのです。
リュック界のマナーとして、電車内ではリュックを背中ではなく片腕だったり、お腹側にひっかけたりします。
それは後ろの人への配慮です。
しかし背負わないのであれば、リュックにした意味がないわけです。
お腹側にひっかけるなんて、そんなの絶対に嫌ですし、座る際に膝に乗せるのも絶対に嫌です。
しかも小物を取り出す事にも大変労力を要します。
結局、リュックは3日で放り出してしまいました。
そして今回の旅、長崎でボストンバッグを購入いたしました。
ボストンも初めてですが、非常に肩にかけやすく結構気に入っています。

2015年11月7日土曜日

脱祭

今年も祭のシーズンとなり、周囲がザワザワと騒がしくなってまいりました。
市民の大半が熱狂的な祭の信者のような町に生まれてしまうと、本当は祭なんて全く興味がなかったとしても、祭信者のフリをしなければ生きて行けないというのが現状となります。

一般的な祭信者の特徴として
・遠くから太鼓の音が聞こえて来ると、いても立ってもいられなくなって、家の外へ飛び出してしまう。
・人生設計は祭を中心に考えているので、仕事なんて二の次。
・祭休暇をもらえない会社なんて、すぐに退職します。
・祭が終わった1秒後からは、来年の祭の事を考えている。
・祭好きの人としか結婚は勿論、交際もしない。
などがあげられます。

既に祭が途絶えてしまい、街から祭が消滅してしまった地域出身の人からすると、あの熱狂的な祭に対する思いは理解できないものがあります。
ところが、そんな祭中心の地域出身の人でも、実は理解できず、理解しているフリをして生きているという人が存在しているのです。
興味がないのに興味があるフリをするというのは、それはそれは大変な事です。
毎年このシーズンの祭信者のフリに疲れ果て、そっと人知れず街を出てしまう人もいるでしょう。
それが最も楽になるための、簡単な方法かもわかりません。

政党、宗教、そして祭、こういった事に対しては、そのまっただ中に身を置いた場合、言いたくでも自由に発言できないというのが本音のようです。
福岡の居酒屋に設置されたテレビで、阪神vsソフトバンクの日本シリーズを、そっと見ている阪神ファンのようなものなのです。

個人的に

なんでもかんでも「個人的に」とつける人がいます。
先日、その個人に個人的な質問をぶつけてみました。すると
「うーん、せやな、まぁ個人的な見解やけど私はこう思うで、な、な、」
と言うのです。
はなっから個人に個人的な意見を求めているのに、あくまでもこれは一般論ではなく個人的な意見として回答してきたのです。
そんな事はわかっとる。
個人的な意見に決まっとる。
そもそもあなたは個人なのです。
単なる一個人。
こっちは一般論をわざわざあなたに聞く必要なんてありませんし、求めていません。
だからいちいち「個人的に」とか言わなくてもよいのです。

一応くん

なんでもかんでも「一応」とつける人がいます。

上司 「なぁ、あれやっといてくれた?」
部下 「一応やっときました」
上司 「はぁ?一応てなんやねん一応て」

そもそも「一応」という事は「やりたくないけれど念のためにやった」と受け取れますから、この上司が言う事も理解できます。

彼女 「ねぇ、着いたら電話ちょうだいね」
彼氏 「うん、一応電話するわ」
彼女 「一応てなんなん一応て」
 
そもそも「一応」という事は「しなくても良いけれど念のためにやった」と受け取れますから、この彼女が言う事も理解できます。

べつにわざわざつけなくても良いのに、癖なのか何なのか、ついついなんでも「一応」とつけてしまう人なのです。
そんな人を、我々は「一応くん」と呼んでいます。

2015年11月6日金曜日

宴会

1人で食事をしていると、聞きたくなくても勝手に他の席の話し声が聞こえてきます。
特に宴会ともなると、テンションの高さに比例して、自然に声も大きくなり、少しぐらい離れた席に座っていても、全てが聞こえてしまうのです。
しかしながら、やはり宴会ですので、たくさんの笑い声と共に、楽しそうな会話が聞こえてくるのですから、べつに嫌な気にはなりません。
やはり1人で黙って食べているよりも、気の合う人と、あーだこーだ言いながら騒がしく食べた方が美味しいに決まってますし、栄養の吸収率も高い事が証明されています。
ところが、中には例外もあって、聞いていてとても辛そうな宴会もあります。
仕切る人がいなくてダラダラとしてしまっている宴会や、偉そうな上司が1人武勇伝を語り続けている宴会、仕切るリーダー格が喋る内容がくだらなくてしんどすぎる宴会、偉そうな上司がゴマスリ部下ばかりを集めて実施した宴会等々。
しかし、どちらかというと、こちらまで楽しい気分になってくるような宴会の方が多いような気がします。
人は皆、宴会が好きなのです。
できれば毎日でも宴会したいものなのです。

宴会を検索してみますと、、

「飲食を共にすることによりお互いのコミュニケーションを深める行為をいう。通常2~3人程度で行うものは宴会とはいわず、ある程度まとまった人数で行う場合に宴会という。
類義語としては、宴、饗宴、飲み会、パーティなど。」

宴会の定義は4人以上のようです。
3人なら全く同じ行為をしていても宴会とは呼ばないとの事です。
会食とでも呼ぶのでしょうか。
2人ならさすがに宴会と呼べないでしょうが、3人以上ならもうそれは宴会だと思うのですが。
4人以上なんて勝手な定義を決めないでもらいたいものです。
いっそのこと2人以上なら、もうそれは宴会だと定義づけて欲しいものです。

熊本県天草市の人々

先日、三重県の友人たちと、熊本県天草市を旅した時の事です。
キリシタン館に到着して駐車場に車を停めると、そこにいたおっちゃんと目が合い、ペコッと会釈してきたのです。
「なに?知り合い?」
友人が聞いてきます。
ところがあんなおっちゃん知りません。
「誰かと間違えたんちゃうの?」
そう言うと、私は気にせずに車を降りました。
次に、友人がアーケードを見たいと言うので、銀天街へ行く事にしました。
近くに車を停め、歩いて銀天街へ向かっていると、郵便局の前に立っていた可愛らしい女の子と目が合い、またこちらにペコッと会釈してきたのです。
「なに?また知り合い?」
「だから知らんし」
銀天街をトボトボと歩いていると、靴屋のところにいたオバチャンと目が合いました。
するとオバチャンもこちらにペコッと会釈してきました。
この街はどこへ行っても、全く知らない人だとしても、必ず誰もが会釈する事になっているようです。
そういえば、以前、初対面の子供が、すれ違いざまに何人もこちらに挨拶して来た事を思い出しました。
なんという気持ちの良い街なのでしょう。
夜中まで飲んで、酔っ払って街を歩き、その辺でたむろしている連中でさえすぐに友達になってしまうような街なのです。
挨拶は人と人とのコミュニケーションのきっかけとなります。
年齢に関係なく、誰もが躊躇なくこのように挨拶ができるという環境は、まさに理想のスタイルなのではないでしょうか。