2010年7月31日土曜日

親切な人

人が自分に施してくれた恩恵は忘れてはならないが、自分が他人に施した恩恵は忘れなくてはならない。

困っている人を見かけたら助けてあげる。
人に親切にする。
自分を犠牲にしてでも人に親切にする。
その人よりもよっぽどこっちの方が大変なのにそれでも人を助ける。
それは何故か?
人からええ人や言われたいからか
人から感謝されたいからか
人から尊敬されたいからか
ちゃう
見返りはイラン。見返りを期待したらアカン。
期待してる時ほどなーんもない。
そんな事よりもいつでも人に親切にしていると、人から親切にされる。
見返りを期待せずに人に親切にしていると、自分が困った時に誰かに助けてもらえる。

だから人には親切にする。

2010年7月30日金曜日

美容院

幼少期、近所に2軒ある理髪店のうち、いつもキレーなおねいさんがやってた方に通ってた。
けれどなんらかの理由で閉店となり、それ以降はもっと近所にあったガラの悪いニーチャンがやってる理髪店に通った。

実家から徒歩5分。毎月一回いく。18歳まで通った。実に13年ほど。
しゃーけどちょっとした事でモメて、それ以降は1回も行ってない。1回も顔を合わせてないし。
その後は姫路市内の大型の美容院へ通った。18歳~1年ほど。
そして担当のオニーサンが独立し、ちっちゃな美容室をオープン、そこに2年ほど通った。
でもだんだんと人気が出てきたのか、待ち時間が長くなってきて行かなくなった。
だいたい切りたい時にすぐ切りたいので、切りたいと思って予約電話して、数日後に行ったとしても、もうその時には切りたい気持ちが半減してるかもしれへん。
だいたい予約した当日に限って、ヘアーがばっちり決まったりするものだ。
さらにシャンプーは地肌ボロボロになるし、2年も通っててもセンスがイマイチ合わなくて何回もクレームつけた。そして向こうもプロなので自分のセンスを押し付けてきたり。

その後、何軒か口コミで良いと聞く美容院を渡り歩いてみた。
どこもピンと来なかった。だいたい技術なんて大差ないけれど、会話がしんどいお店が多い。
やはり美容師の人柄やコミュニケーション能力も重要なポイントである。

そんな様々な要因が重なって、もう美容院に行くのは辞めたのだ。
そして自分で切るようになった。
もうかれこれ20年以上、自分でカットもパーマも毛染めもやっている。
自分でやるので切りたい時にいつでも切れる。毎日でも切れる。
プロ用ハサミで、合せ鏡で。まったくストレスがない。
さらに何人か友人のヘアーも手がけている。勿論無料だ。

20代の後半の頃、職場に元理髪店経営の部下がいて、職場で皆のヘアーをカットしていた。
俺も数回カットしてもらった記憶がある。
彼はハサミ捌きが素晴らしく早くて、まさにプロという感じがした。
でもセンスがイマイチで、俺とは合わなかった。
技術なんかイラン、それよりセンス。ヘアーのセンス。それと聞き取りのセンス。
「ここをこうカットしてここはこう、全体的にこんなイメージに仕上げて欲しい。」
色々詳しく伝えてさらに参考写真まで見せても、出来上がりが全然違う。
なのでお客様がこんなヘアーにしてほしいと抱いている願望を、瞬時に現実化できるセンス。
瞬時にお客様の髪質や生え方を理解・把握して、少しでも要望に近づけることができる。
そういうセンスが必要と思う。
そんな人はホンマ滅多におらんし、おったとしても予約でいっぱいと思う。
しかもセンスが良くても、人柄やコミュニケーション能力が高いとは限らない。
なのでやっぱし自分で切る。
それがいっちゃんストレスがないし。

2010年7月29日木曜日

人は褒められたい生き物

人は褒められたい生き物。
褒められると嬉しい。
人から褒められたい。
褒められると嬉しくて、もっと頑張ろうとおもう。
褒めてくれる人が好きだ。

植物でも毎日「キレイやなあ」「可愛いなあ」と褒めてるとキレイに花が咲く、キレイな実をつける。
逆に毎日「アホ」「ボケ」「死ね」「臭い」などとけなしていると、やがて枯れてしまうというのだ。
植物も褒められたいのだ。

氷の結晶も同じだという。
2つのグラスに水を入れ、1つには「キレイな水、美しい」と貼紙をする。
もう1つには「汚い水、臭い」と貼る。
そして両方凍らせた時の氷の結晶は、全く別物になるのだとか。
前者の方は結晶らしい芸術作品のようにきれいな結晶、後者は汚いバランスの悪いガタガタの結晶ができる。
なんとも不思議な話だけれど本当の話である。

「こいつは、けなして伸びるタイプやねん」
こういう事を言う上司をよく見かけるけれど、人の細胞も水の分子と同様に、褒めることでキレイなカタチを形成するのではないか。
例えば、人は1日に12人から「キミ病気ちゃう?」と言われるだけで簡単に病気になる。細胞が病気を作り出してしまうのと同様に「おまえはアカン」「おまえには無理」と言われれば言われるほど出来ない人になってしまうと思う。
やっぱり褒めて伸びるというのが正しいはず。
けなして伸びると思ってるのは上司の勝手な思い込みで、実際は逆効果だと信じる。
俺は少なくともけなされると自信をなくすし、ハングリー精神なんてわいてこない。(多少は例外もあるけれど)
やっぱり褒められたい、褒められたら自信もつくし、やる気も湧いてくる。
それが正しいと思う。
人も花も水も物も鳩も、何でも褒めてあげようと思う。

何事もマイナスな部分ばかりに目をむけてないで、良い部分を見ることが大切だと思う。
どんな物でもどんな生き物でも、良い所がいっぱいある。

2010年7月28日水曜日

人は死ぬからね。

昔、お世話になったお客さまのお母様が亡くなられたのだとか。
そのお客さまとは最近は遠縁になっていたけれど、俺の時も葬儀に来てもらえただけで物凄く嬉しかったので、スケジュールを調整し、お通夜に参列してきた。

お経を聞きながら「これまで何人の葬儀に出席してきたのだろう」とふと思った。
祖父、祖母、友人、先輩、後輩、お客さま・・・そして11年前の12月10日に亡くなった母親。

人は死ぬからね。めっさ簡単に死ぬからね。

普段から健康には注意してた母親が、発病後1ヶ月で亡くなった時に痛烈に思ったことは
人はいつ死ぬかわからない』ということ。
まさか死ぬとは思ってなかったので、一切優しい言葉をかけてあげれなかった。
もの凄く後悔した。
死んだら何も言えないし伝えられないという事実を痛烈に感じた。
せめて一言「大丈夫か」とだけでも言ってやれば良かった。
労わりの言葉や優しい言葉なんて、生きてきて1回も言った記憶が無い。
サイテーの息子やと思う。
今でも悔やまれて悔やまれて仕方がない。

なのでそれ以降は、常に周囲の人には言ってます。
人はいつ死ぬかわからんから、親には嘘でもいいので優しい言葉をかけてあげなさい」と。

昨夜の喪主は亡くなったお母様が生きておられるうちに優しい言葉をかけてあげただろうか。
それが無性に気になった。

2010年7月27日火曜日

話を聞いて欲しい

人は誰かに話を聞いてほしいものです。
「今日こんな事があった、こんな風に思った、あんな事があった」
誰かに話を聞いてほしい。
「へぇ~」と言って欲しいのです。
それが特別たいした出来事ではなくても、なんせあった事、起こった事を聞いてもらいたいのです。

聞いてくれる人が存在する人は、何か出来事があった時にその聞いてくれる人の顔が浮かぶのです。
そしておもしろおかしくその人に喋ってる自分をイメージしてほくそ笑むのです。

聞いてくれる人が存在しない人は、ストレスが溜まります。
でも最近はツイッターやブログに書き綴って読者に聞いてもらったり、mixiの日記に書いたり。さらにピグで会ったこともない人に聞いてもらったりと「聞いて欲しいのに言う人がいない」とストレスを溜め込んできた人達も減ってきたのではないでしょうか。

しかしブログやツイッターでは、ある程度の文章力も必要となりますので、なかなかスッキリ伝わらなかったり、思ったようなコメントが得られなくて逆にストレスが溜まるとお嘆きの方も多いといいます。
やはりお互いの信頼関係が築かれた人との直接のコミュニケーションが一番スッキリするのでしょうか。

いずれにしても聞いてくれる人がいるということは、とても恵まれていることです。
聞いてくれる友人もいない(死んだ)、パソコンも携帯も触れない、実はこんなご老人は沢山います。
彼(彼女)らはきっと我々と同様に自分の話を聞いて欲しいはずです。
それを充分に理解した上で、彼(彼女)らに話しかけてみてはいかがでしょうか?
私は積極的に話しかけています。
わざわざ歩いてるご老人に声をかけたりはしませんが、信号待ちや、エレベーターホール、喫煙所などで居合わせた時などに話しかけます。
「暑いですね~」
こんな一言でいいのです。ちょっとした会話が嬉しいはずです。
殆どのご老人は思いっきりここぞとばかりに喋り始めます。
先日は垂水駅前で、たまたま迎えの車待ちの時間に話しかけたお婆さんの、家庭の相談に乗りました。ほんのちょっとの時間でしたが、去り際にお婆さんは「有難うございました有難うございました」と深々と頭を下げられたのです。
別に感謝されたくて話を聞いたわけではありません。
しかも相談に乗るために声をかけたわけじゃありません、単に「暑いですね~」と声をかけただけなのです。
でもほんのちょっとの会話でしたが、あのお婆さんのストレス発散に貢献できたのなら良かったのではないかと思います。
偶然に街で出会っただけの関係ですから、時間がくればサッと立ち去ってもいいのです。
ちょっとした会話でいいのです。
そのちょっとした会話が大切なんだと思います。

あなたの周りにも彼(彼女)らと同様に喋りたくてうずうずしてる人が沢山いるかもわかりません。

2010年7月26日月曜日

予知能力

幼少期から自分には予知能力があるという事は気付いていましたし、そればかりか透視能力があったり、いわゆる直感力が人並み以上に鋭いということは知っていました。
もちろんそれを実証するような出来事が多々あったからであって、テキトーに言うてるわけでもなかったのです。

ところが、大人になってもう何年もそんな能力を使ってなかったせいで、すっかりそんな能力もなくなってしまったのだと自分自身思っていたのです。
しかし、今日、そんな私に久しぶりに
「キターーーーッ超能力!」
と思えるような出来事がありました。
さすがに嬉しかったのでここで書かせていただきたくて、ペンをとりました。

スタッフKとある店舗へ打合せに出かけました。
Kも私もその後のスケジュールが合わなかったので、車2台ででかけたのです。
あまり道を知らないKは、私の真後ろを走行し、ついてきました。
その店舗へは、過去に何回も行っていますが、今日に限っていつもと違うインターで下車しました。
実際今日下車したインターは、少し遠回りになるせいもあって、これまでに1回も利用したことはありませんでした。
なのに何故か私は、今日に限って初めてであるそのインターを下車したのでした。
理由なんてありません、ただなんとなくそこのインターで下車しようと思っただけなんです。
もちろんKは後ろをついてきます。
インターを降りて国道に差し掛かる交差点で、赤信号により停車しました。
すると停車してすぐにKが車から降りてこっちへ走ってくるんです。
「なに?どーしたん?」
「大変です大変です!!車が止まっちゃいました!!」
「なんやてえ??」
信号が青に変わり、後続車からクラクションを鳴らされます。
「えらいこっちゃ!とりあえず押すわ!」
「はい!すみません!」
私は車を少し端に寄せて停め、とりあえず交差点から回避しようと、Kの車を後ろから押します。
押しながらどこへ移動しようかと周りを見渡すと、すぐ横に車のバッテリー屋さんがあったんです。
「そこや!そこへ寄せるで!」
「は、はい!」

バッテリー屋さんの駐車場まで5m車を押し、そこのスタッフの方に事情を話します。
「すみません、ここバッテリー屋さんですよね」
「はい、そうですけど」
「実は偶然この目の前でバッテリーがあがったんです」
「ええー??」

結局、そのバッテリー屋さんの方にバッテリーの充電をしてもらい、すぐに車は動きました。
停車してから5分も経っていません。
まるでKの車のバッテリーがあがることをわかっていたかのように、今日私はこの道を通ったような気がします。
しかもバッテリー屋さんなんてそう滅多にあるわけじゃないし、まさかその目の前で車が止まるなんて・・・
これには驚かされました。

「すごいんちゃん俺!」 Kに言うと、
「ただの偶然じゃないですか!」 とK。
イマイチ解ってもらえないので、解ってくれるであろう知人にメールしました。
すると・・・
「ぶっ 悪霊や悪霊」 との返事。
もっと意味がわかりません。

2010年7月25日日曜日

横目で喋る人

通常、会話してる相手に対して、真正面を向いて喋るのが一般的。
というかそれが礼儀というもの。
ところがこれを何故かわざわざ顔や体をずらして横目で喋る人がいる。
前回の嫌なトークをする人と同様に、ちょっとインテリ気取りをしたいオタク系の人に多いようだ。
しかし世の中には色んな人がいるものです。
何故横目なのか、正確な理由はわかりませんが、おそらく急いでいると見せたい時に、体はもう次に向かって動き出しているけれど、目だけはまだここに残っているという風に見せたいのかも知れません。
これは女性よりも男性に多いような気がします。

2010年7月24日土曜日

写生

路上で写生している人がいた
三宮のサンキタ通り、しかも歩道のど真ん中で立ったまま写生している。
ものすごく通行の邪魔をしていた。

打合せを終えて3時間後、もっかいそこを通るとまだ写生中だった。
おそらくずうっと立ったまま写生しているのだ。
俺ならアウトドアー用の折りたたみチェアーを持参し、缶コーヒーをすすりながら座って写生すると思う。
この人は凄いと思った。
どーしても立った状態での目線のアングルが描きたかったのだ。
どんなに足が痛くとも、そこだけは譲れなかったのだと思ふ
もー少し右に(建物側に)寄れば通行の邪魔をすることもないはずなのに、この人はこの位置のアングルをどーしても描きたかったのだと思ふ。
信念の強い人だ。
 俺も昔はよく画板と絵の具セットと水筒とブドウパンと折りたたみチェアーを持って写生に出かけた。
この人のようにアングルへのこだわりよりも、長時間楽に描ける姿勢の方を優先していた。
もっと云うたら、1日その場で描いて、1日で描き終えなければ写真を撮影して帰って家で写真を見ながら描いた。テレビを見ながらオールレーズンをかじりながら寝転んで描いていた。
それぐらい楽して描いていた。
だからこの人はほんまに凄いと思った。

2010年7月23日金曜日

上空を見上げて

仕事や人間関係で悩んでいる時、ふと上空を見上げて飛行機を探す。

飛行機に乗って上空から地上を見下ろす時いつも思うことがある。
我々はなんてちっちゃな世界に生きているのかと。
上空から見下ろす地上には人なんて見えない。
まさに仕事や人間関係で悩んでることさえちっちゃな事に感じられる瞬間。
我々は地球上で生きている。
大きな地球からするとそんな些細な悩みなんてどおってことないと思う。

悩んだりくじけたりした時、上空に飛行機を探してその時の感情を思い出すのだ。
すると自分の小ささに気付く事ができる。

仕組み作り

「田んぼでは何を作ってると思いますか?」
ある社長に質問された。
すかさず
「お米です」
と答える。
すると
「では、畑では何を作ってるんですか?」
とまた質問される。
すかさず
「野菜です」
と答えた。

実はその社長も、ある農家の人から同じ質問をされたのだとか。
もちろんその社長も俺と同じように答えたという。
すると
「いいえ、私たちは”土”を作ってるんです。土さえちゃんと作れば野菜や米は勝手に育つんです」
と根本的な部分を教えられたという話を聞いた。

確かにその通りだと思う。
社会や組織に於いて、人を育てようとか、教育だとか、意識を変えるとか、そんな事は簡単ではない。
まして言葉で教えだけで、なかなか人なんて変わるものではないのだ。
その農家の人は、実は根本的な部分、例えば仕組みや環境を作ってあげることで、いとも簡単に人を変える事ができ、さらに勝手に成長してくれるという例え話をしてくれたのだと思う。

どうしても責任感がうすく、何回も同じ事を言っても一向に変わらなかったある社員に、部下をつけてあげただけで劇的に変化したという経験がある。
これはまさに仕組みや環境を作ったということが原因で、責任感が生まれ、大きく変化したという成功事例である。
車の免許を取った瞬間に、自転車の危険性が理解できたり、上司になってはじめて上司の気持ちがわかったり、親になるまで親の気持ちがわからないというのもこれと同様である。
人はその立場に立ってはじめて本当に人の気持ちが理解ができるものだ。
企業における技術者と営業との意見の相違もまさにこれに該当する。
技術経験のある営業の方がスムーズに仕事をすすめることができるのは、技術者の気持ちが理解できるからである。
もちろんその逆も然り、営業経験のある技術者は、営業の苦労を理解できるので、嫌な顔1つせず仕事をこなす。

まさにこれも同じことだと思ふ。
もちろん簡単ではないけれど、でも言葉やテクニックで人を変えようとする方が、よほど難しいのだと実感した。

2010年7月22日木曜日

ご丁寧な人

いつものガソリンスタンドにいるものすごくご丁寧な人。
ご丁寧な店員さん。
ご丁寧すぎてしんどい店員さん。

ものすごく生真面目で、一生懸命なんだと思う。
そして不器用なんだと思う。
今日もガソリン入れに行ったら彼が接客だった。

彼 「いらっしゃいませ。ハイオクでしょうか?レギュラーでしょうか?」
俺 「レギュラー」

この会話はもう何十回としている。
そろそろレギュラーだということを記憶して欲しい。
それともわかっていても丁寧に聞いているのだろうか。

彼 「中をふくタオルはご利用になられますか?」
俺 「はい」

この会話ももう何十回としている。
そろそろタオルがいる事をを記憶して欲しい。
それともわかっていても丁寧に聞いているのだろうか。

彼 「灰皿はお使いになられてますでしょうか?」
俺 「はい」

この会話ももう何十回としている。
そろそろ灰皿を使っている事をを記憶して欲しい。
それともわかっていても丁寧に聞いているのだろうか。

そして今日また新たな質問をしてきた。
ガソリンの給油も終わり、伝票にサインして車を発進させようとした瞬間

彼 「渡し忘れのものはありませんか?」
俺 「はあ??」
彼 「渡し忘れのものはありませんか?」
俺 「渡し忘れってぇ?」
彼 「いや伝票とか灰皿とかです」
俺 「あ、は、はい」

だいたい発進させようとしていたし音楽を聞いていたので、正直聞き取れなかったし、まさかこんな質問されるとは思わなかったので何をゆーてるのか理解に苦しんだ。
ってゆーか渡し忘れがないか自分に確認して欲しい。
こっちは受け取る側やしな。
でも彼は一生懸命丁寧に接客してるんだと思う。
不器用なんだと思う。

2010年7月21日水曜日

本能

人は本能的に人をいじめるのだとか。
毎日のように報道されている「いじめ問題」。
日本だけでなく韓国でも深刻な問題となっているという。

俺はこれまでの人生を振り返って、いじめに遭った事はあっても人をいじめた、もしくはいじめに加わった記憶はない。
実はこういう「いじめ」っていうのは人間が生まれた時から持っている本能なんですってね。
だから訓練しないと簡単に人を傷つけてしまうらしい。
その訓練とは「人の痛みを自分ごとのように考えること」なんです。
誰かがデスクに足をぶつけたら「あ、痛かったやろな」と考える。
誰かが病気でしんどそうにしていたら「しんどいやろな」と思う。
相手の気持ちになって考える癖をつけていれば訓練できるという。
そう言えば子供の頃から常にそういう事を親に言われていたような記憶があります。

もちろん親や学校が道徳を教えなくなったり、最近の子供は昔と食生活が変わってしまったので、ビタミンBやカルシウムが不足してイライラしたりキレたりが多いのも一つの要因であることは確か。
でも全部の学校や家庭で前述の「訓練」を教えたら、きっと地球は素晴らしい星になるような気がする。

小さな事かも知れないけれど、出会った人には一人でも多くこういう話をしていきたい。


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2010年7月20日火曜日

流れ星

流れ星に3回願い事を唱える事ができたら、その願い事は叶うという。
昔からよく耳にする迷信である。

ところがこれは迷信ではなくて本当の事なんですってね。
俺が1番好きな言葉です。

『流れ星に3回願い事を唱える事ができたら、その願い事は叶う』

いつ見れるかわからない流れ星、しかも一瞬で消えてしまう流れ星。
そのいつ見れるかもわからない一瞬に3回も唱える為には、常にその願いを思っておかないと不可能なのです。
逆に言えば「常に思ってたらその願いは叶う」ということ。
ビジネスでも将来像でも何でも、まずは願わないと叶わない、そしてそれを常に思うという強い気持ち。
それがあればたいていの事は実現するものです。
夢が叶わないほとんどの人は途中で諦めています。
最もらしい理由をつけて諦めています。
夢や目標は自分を動かす最も重要な原動力であり、老化をふせぐ最も簡単なメンタルエステティックであると思う。
夢に向かって走り続けてる人って、いくつになっても若くて魅力的です。
そんな大人であり続けたいと思ふ。

2010年7月19日月曜日

ペニ太の命日

11月23日はペニ太の命日です。

21歳の頃に先輩から貰った子猫のペニ太。
ぶっさいくな顔だったので恥ずかしい名前をつけました。
昼間はほとんど留守にしてたので、夜家に帰るといっぱい甘えてくるんです。
寝るときはいつも俺の胸の上。寝顔が可愛かった。
テレビや雑誌も一緒に見ました。
いつもテレビの画面の前に立つので見えなくてケンカしました。
雑誌を見ててもいつも雑誌の上に乗るのでページがめくれなくてよくケンカしました。
お風呂もいつも一緒に入りました。ヤツはお風呂が好きだったんです。

11月23日、当時住んでいたアパートのお風呂はガス湯沸し式だった事もあって、その当時の彼女がお風呂を沸かしたまま忘れて俺たちは出かけました。
夕方一人で家に戻るとお風呂がゴトンゴトンっと沸騰していたので、慌ててお水を入れて冷ますことに。
するとペニ太が嬉しそうに俺の元へやってきて何を思ったかいつものように下から浴槽にジャンプしたんです。そう、沸騰してる熱湯にダイブしたんです、俺の目の前で。
「ギャァァァァァァァァァアアアア!!」ペニ太の悲鳴です。
俺は目の前で一体何が起こってるのか考える暇もなく、必死でヤツをすくい上げていました。
そして苦しみ悶えながら部屋中を転がりまわるヤツに必死で水をかけていたのです。

ふと見ると自分の両手の皮が1cmずつほどずれているのに気がつきました。
そう、素手で熱湯に手を突っ込んだせいで両手に大火傷を負っていたのでした。
手の皮がまるでゴム手袋のようにずれてしまっていたのです。
ペニ太に水をかけながら肘で119番し、俺は病院へ運ばれました。
ヤツは駆けつけた当時の彼女が動物病院へ連れて行きましたが、全身だけじゃなく内臓も大火傷してるという事で、完治は不可能と判断されたのです。
俺は、やむなく苦しまずに葬れる方法をチョイスしました。

入院してる間、ペニ太のことばかり考えてました。
ベッドで泣きながら何回も何回も謝りました。

1ヵ月後、無事に退院し家に戻り、また普通の生活に戻りました。
入院中、絶対に引っ越そうと思っていたのに、退院してからは逆にまだそこにペニ太がいるような気がして引越しはしませんでした。
それから数回、夢にペニ太が出てきたんです。
当時のようにいきなり飛び掛ってきたり、ジャレてくる夢です。
ハッと目が覚めてもその感覚は残っていたので、実は本当に遊びにきたのかも知れないと、嬉しくなりました。
なんとなくペニ太が許してくれたような気がしたのです。
「ごめんなペニ太、ごめんな」
声に出して謝りました。

その後、ペニ太の夢は見てませんが、街でペニ太そっくりのブッサイクな猫を見ると、思わず微笑んでしまいます。

くだらない不注意で殺してしまったペニ太。
毎年11月23日はペニ太と楽しく過ごした時間を思い出します。



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2010年7月18日日曜日

子供の頃、球作りに精を出していた。

裏の畑の土に水分を加え粘土状にし、それを煉って直径5cmほどの球にする。
それをよく乾燥させ、表面を磨くのだ。
煉る時には空気が混入せぬように最新の注意をはらう。
そうする事で、より強靭な球が完成する。
俺が球作りに没頭し始めてから数週間後、近所の後輩や弟がメンバーとして加わった。
俺たちは毎日球作りに没頭した。
いかに硬く強靭でしかも美しい球を作るかに集中したのだ。
目標は畑の土でビー玉のような球を作ること。
弟が裏山の赤土で球を作りたいと申し出てきたが却下した。
勿論赤土の方が粘りがあって良い球が作れるけれど、それでは意味がないと考えたのだ。
あくまでも畑の土にこだわりたかった。
我々は1ヶ月もすると笊で土を漉したり、中心に石を入れたりと、相当な技術進歩を遂げていた。
表面に光沢を出す方法も、かなり試行錯誤した。
布で磨いたり油を加えたり、革で擦ったり。

今思えばかなりの出来栄えだったと思う。
しかしなぜあんなに球作りに没頭したのか、そしていつの間に球作りを辞めたのか、なぜ辞めてしまったのか。
全く思い出せない。

2010年7月17日土曜日

信号まち

信号まちが待ち遠しい。
通常はこんな感情とは無縁であり、逆にできることなら信号にひっかかりたくないと思う人がほとんどであろう。
「今日は1回も信号にひっかからなかった、ついてるわ~」
こんなことを聞いたこともある。
ドライバーにとって赤信号での信号まちはできるなら避けて通りたいストレスなのだ。
青から赤に切り替わる黄色のタイミングで、停車するよりも加速して切り抜ける人の方が多いのではないだろうか。

そんな信号まちも、実は待ち遠しい時もある。
以下羅列してみた。

・本を読んでいる時。
運転中はもちろん読めないので、赤信号にひっかかった時に読む。
夢中になりすぎると後ろからクラクションをならされるので、ちらちらと前を見ながら読まなければならないので大変である。
でも本を読んでいる時に一番信号まちが待ち遠しいのは確かである。

・爪を切っているとき。

基本これは運転中でも可能といえば可能だけれど、危ないので信号まちのタイミングで切る。
ところが1回の信号待ちでせいぜい2~3本程しかカットできない。
それをなんとか5本カットできないか試行錯誤するという楽しみ方も1つである。

・弁当もしくはラーメン食ってるとき。

これはなかなか運転中にはできないので、信号待ちで食べるのだ。
一口食べると早く次の一口が食べたくて食べたくて、とにかく早く信号にひっかかってくれないかとヤキモキする。

これ以外にもアプリやメール、ツイッター、テレビなど様々な方法がある。
何でもいいのでこういう事をあなたのドライビングライフに取り入れる事で、信号待ちの煩わしさから開放され、信号の変わり際の交差点での事故防止にも繋がるのではないか。

いちご畑

いつもの窓から苺畑を見下ろしながらふと思った

「こんな直射日光あたるとこに苺あったら腐るで」

そばにいた2人組(K&K)が言う
K1 「そら腐りませんよ」
K2 「根から土の中の養分を吸収してるから」
K1 「生きてるから腐らないんです」
K2 「光合成してるから腐らないよ」

「こんな暑い暑いとこ、冷蔵庫に入れとかなあかんのちゃん」

K1 「生きてるから大丈夫ですよ」
K2 「人間だって暑くても腐らないでしょ」
K1 「死ぬまでは腐らないですよ」

「死んだら腐るんか、生きてる時は抗菌作用があるんかな」

K1 「このまま土の中にいても歳とれば腐るけれどね」
K2 「枯れる時です」

彼らK&Kコンビは、俺のそんなアホらしい質問にも真面目に答えてくれる。
そんな事は知っとる。
ただそういう発想がおもろいなと思って言うてみただけや。

2010年7月16日金曜日

人生という舞台

人は皆、人生という舞台で状況というシナリオを片手に持って生きている

職場、恋愛、家庭、友人、知人、近所付合い、スポーツ、学生、趣味、そしてネットの世界。
その場その場、それぞれの場所で異なったキャラクターを演じきる。

 会社ではいつも受身で周りからいじられキャラだったA君が、実は友人付合いでは仕切り屋だったり、学校ではいつもツッコミ担当のB君が、実はバイト先ではボケ担当だったりと、人はその場その場、その時のポジションや人間関係によってTPOに合わせキャラを演じるのだ。
「いま業界にはこういうキャラがいないのでちょうどハマるんじゃない?」等とテレビの世界ではよく聞く話。
キャラクターをまるでパッチワークのようにはめ込むのが彼らの仕事だ。
それと同様に、会社でも近所付合いでも友人関係でもキャラクター設定は存在する。
全く180度違うキャラではなくても、少し異なるキャラを演じているはずである。
それが大人の付合い、協調性となるのである。
「あの人は二重人格だ」等と聞くが、二重どころではない、もっとあっても良いのだ。
その場の人間関係を判別し、どんなキャラクターが丁度ハマるのか、それを判断しそしてそのキャラになりきる。
それが賢い大人の(子供でもやっているが)やり方である。

・上司にはペコペコなのに、部下にはエラソーにしてる先輩。
 (これは嫌われるパターンですが)
・男子の前では可愛い子ぶっているのに、女性同士ではイヤミな友人。
 (これも割りとよく耳にする話)
・普段あんなにピシッとしてて隙のない彼女なのに、彼といる時は可愛らしい子猫ちゃんになる。
 (ギャップが良いと男性には好評)
・彼には一生懸命尽くすけれど母親の前では全くズボラな彼女。
 (母親としては甘えられて嬉しい場合もある)

これらは全てキャラの変化である。

勿論、どんな場所へ行っても全くキャラが変化しない人もいる。
全く変化のない人はある意味カッコイイと思う。
でも反面、不器用で人付き合いができない人かも知れない。
幼児はどこへ行ってもキャラクターは同じである。
それと同様に、幼児レベルのワガママな人なのかもしれない。
合わしたいけど合わせられないだけの人かもしれない。
しかしそんな人はごく一部であって、殆どの人は何かしらキャラを変化させてそれを演じているはずである。
それが人間なのだ。

良い意味でも悪い意味でも人は皆、役者であって、人生という舞台で、様々なキャラクターを演じて生きているのである。

2010年7月14日水曜日

虚像に溺れる男達

自分のことを「ちょい悪オヤジ」と称する人がいる
人のブログを読む趣味はないけれど、毎日10件もTBしていると読む気はなくても必然的に見てしまう事がある。
そんな時に特に思う。
プロフィール欄に自身で「ちょい悪オヤジ」であるという紹介文を書いている人。
それを見ると悲しくなるのだ。悲しいというか可哀相になる。
可哀相というか情けなくなる。
そんな様々な感情が沸いてくるのだから、やはり目に留まる。
嫌なものほど見てしまうというのと同様に、嫌なのに目に留まってしまうのだ。
まさかどんな日記を書いているのかまでは興味は無いけれど、だいたい想像がつく。

自分で自分のことを「ちょい悪オヤジ」なんて云う人は、ちっとも悪くない人なのだと思う。
いや悪くないどころか良い人なんだと思う。
めさめさ真面目で、きっと学生時代は登山部か何かに属していて、趣味は切手集めとか鉄道だったり。
周りから不良と呼ばれたいけれど誰も呼んでくれないので自分で不良と云う。
そもそも本当の不良は自分のことを真面目というし。
ちょい悪いオヤジは自分ではそんな事を云わないのだ。
もっと詳しく云うと、本当にちょっと悪いオヤジは自分で自分をオヤジとは認めていない。
あくまでもオニーサンと思っている。

俺のblogの読者の方で、自身のblogタイトルに「○○オヤジの・・・」と名付けている人がいて、ずっと俺より年上のまさにオヤジなんだと思っていた。
ところが年齢を聞いてビックリ、なんと彼は32歳だったのだ。
なんでそんな若いのに自分の事をオヤジだと思っているのか、俺には理解できなかった。
実際会った事もないので真意はわからないけれど、きっと自分でそう思い込んでいるのだと思う。
思い込むのは自身の勝手なので、例え20代でもオヤジだと思い込めばオヤジになる。
50代でもオニーサンだと思えばオニーサンになるのだ。

ちっとも悪くない人が自身をちょい悪オヤジだと思っている。
ちっともオヤジではない人が自身をオヤジだと思っている。

こういうものは結局周囲から言われて自覚していくものではないか。
地方のキャバクラでホステスから「ちょい悪オヤジみたい~」とか言われたことで
「えっ?俺ってちょい悪なん?かっけー」と思う。そして自身で思い込むのではないか。
確かに昔「オヤジ狩り」のニュースで、狩られたオヤジの年齢が30歳だった事に衝撃を受けた事がある。
しかし自分で言ってしまうのはどうかと思う。
しかもちょい悪なんて自分で言うものではない、周りが決める事である。
悲しすぎるからやめて欲しい。
非現実に逃避して、虚像の世界に酔いしれるのはやめて欲しい。

2010年7月13日火曜日

トークの未熟者

世の中には様々な嫌なトークをする人たちが存在する。
それは単に俺だけが嫌と感じているのか、それとも周囲の人々の殆どが嫌と感じているのか。
逆にこういうトークをする人たちは、これがいいと思って誰かのトークを真似ているはずなので、実際問題みんなが嫌と感じるものではないのかもしれない。
格好いいと感じる人もいるからこそトークが感染し、拡大しているのだと思う。
でも俺は単にイキリ、すなわちトークの未熟者として位置付けている。

・質問系男
言葉の語尾を意味もなく質問系にする男。
しかも通常本当に質問する場合は最終語尾に「?マーク」をつけるけれど、質問系男は句読点の度に「?マーク」をつけて喋るのでしんどい。
知的を気取りたいおっさんに多い現象。

例)えっと?これが?こうなるわけだから?この場合は?こういう?風に?対応を?して?もらえますか?

・自身を人と呼ぶ男
少し気取ったおっさんに多く見られる現象。
自分を語りたいという心の現れか。

例)ボクってさ休みの日はボーっとしていたい人なんだよね。

・自身を子と呼ぶ男
少し可愛い自分をアピールしたいおっさんが多く使用する。アラフォー世代の女性にも多い。

例)ボクってさ休みの日はボーっとしていたい子だからさ。

・物を子と呼ぶ男
パソコンや車、デスクや棚など、とにかく物を生き物のように呼んで注目を浴びようとするおっさん。アラフォー世代の女性にも多い。

例)この子(机)をこっちに移動して、この子(棚)はこっちがいいんじゃない?

・うなずき男
こちらが喋った事に対してうなずくのではなく、自身が喋った後にうなずく人達。
しかも1回や2回ではなく10回ぐらいうなずくのだから疲れる。
アラフォー世代の女性にも多い現象。

例)ボクはね、休みの日はだいたいボーっとしてるんだよね。うんうんうんうんうんうんうんうん

・笑い男
自身が喋る面白い会話のオチをまだ喋る前から想像して笑いだす現象。
まわりの人からすれば、まだオチも話してないのに何が面白いのかがさっぱりわからない。

・東京弁の関西人
東京弁を使う事で知的な印象を与えるんじゃないかと錯覚して、やたらとアクセントを東京弁風に喋る現象。
アラフォー世代の女性に多く見られる。

・小声男
小さい声を発する事で、聞いている側が耳をこらし注目するという事を狙っているのか、わりと周囲にもこういう男は存在する。
正直うっとおしい。

・感嘆符男
する!とか、やる!とかなんやゆーたら「!」をつける男。特におっさんに多い。
聞いていて学がない風に聞こえる。

・返事男
やたらと自分が喋った後に自分で返事をする男。
言葉のキャッチボールとは、交互に会話するからこそ成り立つのであって、こっちが返事する前に自分で返事をするというのはどうかと思う。

例)これがこーなってこーなるんですよ、はい。

以上様々な嫌なトークをする人の例を挙げてみましたが、トータル的に男性でしかもおっさんに多い事に気付きました。
そしてどの例も周囲に必ず同じようなトークをする人が存在する、すなわち感染しているという事がわかります。

感覚の交換

20代の頃、マクドナルドで食事をすると、なぜか身体がだるくなった。
それまで和食中心の食事しかしていなかったせいか、ファーストフードは受付けなかったのだ。
しかし当時感じていたアノだるさが、今の普段の感覚のように思う。
老いとは恐ろしいものだと思った。

昔よく妄想していた事の一つに、この「感覚」を人と交換できたら面白いということがある。
肩がこって体がだるい、今のこの感覚を誰かと交換できたら、今の自分のしんどさがわかってもらえるのに。
しんどい時はそう思った。
気分が晴れて清清しいとき、今のこの感覚を誰かと交換できたら、今の自分の爽やかさがわかってもらえるのに。
心地よい時はそう思った。
もし交換できたら「うわっ!おまえ今しんどいな~!」とか、「うっわ!ごっつええやん!」とかそういう会話が飛び交うだろう。
そして老人と交換すると、立ち上がるのも大変な事がわかる。
すると労わる気持ちも芽生えるのではないか。
辛い思いをしている人と交換して、その辛さが親身に理解できたり。
自分が辛いときにもっと辛い人と交換して、自分はまだマシである事を知ったりできる。
そういうことをよく妄想して過ごした。

2010年7月11日日曜日

人は何故群れたがるのか

人は何故群れたがるのでしょうか。
集団に身を置きたいと思う人が圧倒的に多いように思います。
日本人だけの特性かもしれません。
個人プレーよりの団体プレー、個人行動よりも団体行動を選びたがる。

以前、高速道路の渋滞は10台という理論を発表しました。
渋滞とまではいかないノロノロ運転の原因を数年に渡って調査した結果、1台のノロい車の後ろに何も考えずについていっている10台ほどの団体が原因だった という話です。
その団体を追い越すと少し空白があって、またその先には10台ほどの団体が走っている。
追い越しても追い越してもそういう団体がいた事に衝撃を受けたのです。
なぜノロい1台を追い越して先に行こうと思わないのか。それが集団心理だったのです。
私はこの事を重要視し、何人かのドライバーに質問しました。
なぜ先頭を走りたがらないのか、ほとんどのドライバーはこう答えたのです。
「先頭走ったら不安じゃないですか」
例えば先で警察がスピード違反のネズミ捕りをしているかもしれない、交通事故があるかもしれない、スピード違反のオービスにひっかかるかもしれない等の不安があるのだと言うのです。
さらに先頭を走ることで責任を受けたくないという意見もありました。
要するに誰かに先頭を走ってもらうことで責任を逃れたい、後方を走っていることで何も考えなくても良いので楽だというのです。
これはリーダーシップをとりたくないという事なのでしょうか。

先日腹立たしかったとあるグルメサイトでの組合設立的なものも同様に、1人では意見が通らないだろうから団体で意見するというものも同じかもしれません。
要は1人では意見する勇気がないので、皆で結束して意見しようという人の集団。
意見等というものは、相手の事情を理解した上で通るのかどうかなんてこちら側で事前にわかるはず、事情を理解していても団体で意見するなんて身勝手すぎま すし、困らせるだけなのに。
団体となれば急に強くなって、何でも通るのではないかという錯覚を起こしているのです。
が、しかし、これも前述と同様に、リーダー的な人以外の殆どは、とりあえずどっちでもいい的な楽なポジションを選んでいるだけではないでしょうか。

群れることで楽になれる。ややこしい事は考えなくても良い。ただついて行くだけ。
こういう人が多いことを理解した上で、リーダーとなる人間が多くの人を良い意味でも悪い意味でも利用しているという図が浮かんできます。
マルチ商法やネットワークビジネス、宗教など、日本は世界でも群を抜いて成長する国だとか。
それはこの集団心理が原因となっている事は間違いないでしょう。

コミュニケーション能力

自分がそれほどコミュニケーション能力が高いとは思わないけれど
コミュニケーション能力がアホほど低い人間には本当に怒りを覚える
こちらが投げかけた質問に対して、まったくピント外れの回答をしてくる人。
何度も同じ質問を繰り返さなければ質問の意味さえわかっていない。
質問する側が気を使って相手にまず理解させないと、正しい答えを引き出せない。
こういうまさにアホな人間が存在する。
そんなアホなコミュニケーション能力の低い人間の特徴をあげてみた。

・相手に分かり易く説明しようという気が全くない。
・質問してきた時点で相手を小馬鹿にしているため、嫌味を交えて余計な事を言う。
・質問の半分以下程度を聞いた時点で勝手に相手が言いたい事を予測し口走ってしまう。
・育ちが悪い。
・見栄張りである。
・知ったかぶりをする。
・虚言癖がある。
・陰口が多い。
・自身を過大評価する。
・プラス思考という言葉で自身を正当化する。
・卑怯者である。

コミュニケーション能力が低いので、アチコチに敵を作る。
いやコミュニケーション能力が低いから敵を作るのではなく(それもあるが)上記(特徴)のような
性格だから敵を作るのかもしれない。
いや正直味方は存在しない。全員に嫌われている。
なぜそんな状態で悩まないのか、なぜその原因が自分である事に気付かないのか。
なぜそれを平気で人のせいにしているのか。
何度直接指摘しても、何度文句を言われても、何度罵倒されても気付かない。
直さない。直らない。直す気がない。
だから皆から「アホや」と陰口を叩かれるのだ。

芸術とは

芸術とは一体なんなんでしょうか。
あの人の絵は芸術的だ。
これは芸術的な作品だ。
と簡単に言うけれど、それは見る側が勝手に好みで決めるもの。
人がいくら素晴らしいと言っても、他の人からすればしょーもないと写るかもしれません。
100人中90人が素晴らしいと言えばそれは本当に素晴らしい芸術なのでしょうか。
多数決なんでしょうか。
でもその90人は全く絵のセンスのない人かも知れません。
多数決が正しいとも限らないと思うのです。
いくらセンスが良くても、それが万人ウケするとは限らないものです。
逆に大衆受けする絵も存在します。
そしてセンスの無い大衆ウケだけする絵のほうが高評価を受ける場合もあり得ます。

芸術を計る物差しとは、一体なんでしょう。
お金か、いやお金でもそれは同じで、センスない人がいいと言って買う場合もあります。
世界的に評価を既に得ている芸術家がいいと言えばいいのでしょうか。
それもやはり好みです。
しかもその世界的に評価を得ている人が、センス無い大多数の人から評価を得ているという
事も考えられます。

もしくは知名度か。
有名な人が絵を書けば、その絵の価値は高くなります。
どんなジャンルでも名声を得た人が絵を書いて売れば高値がつきます。
しかし果たしてその絵が本当に素晴らしいのかなんて誰にもわかりません。
結局センスある人も無い人も含めて、大勢の人が評価した作品が素晴らしい作品となります。
やはり結局多数決なのです。
しかし前述の通り、多数決ほど曖昧なものはありません。

名も無い画家が書いた絵を、たまたま知名度ある画家が見て「これは素晴らしい!」と
絶賛した場合、その知名度ある画家を尊敬してやまない取り巻きは
「あの先生がいいとおっしゃるなら素晴らしいに違いない」
と流されるでしょう。
本当にいいと思わなくても、人なんて簡単に洗脳され、流され、いいと思ってしまうものです。

結局、芸術とは自己満足ではないでしょうか。
いくら人から褒められても絶賛されても、自身が満足いってなければそれはいい作品とは
ならないでしょう。
誰からも評価されなくても、自身で素晴らしいと思えばそれは素晴らしい芸術となるはずです。
貶されても馬鹿にされても自身で素晴らしいと思っていたなら、周りの人間はセンスが無いと
思うはずです。
俺なんてしょっちゅう思って生きてます。

芸術はナルシシズムでしかないのかもしれません。